中央競馬について

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公認競馬の始まり [編集] 馬券黙許 日清戦争・日露戦争において日本の軍馬が西欧諸国のそれに大きく劣ることを痛感した政府は、内閣直属の馬政局を設置して馬匹改良に着手した。馬政局は、優れた種馬を選抜育成して質の高い馬を多数生産するとともに、馬の育成・馴致・飼養技術を高めた。さらに、国内における官民の馬産事業を振興するためには、競馬を行って優勝劣敗の原則を馬産に導入すると共に、馬券を発売して産馬界に市場の資金を流入させる必要があるとして、馬券の発売を前提とした競馬の開催を内閣に提言した。賭博行為は違法であったが、競馬は軍馬育成の国策に適うとして、桂太郎内閣は馬券の発売を黙許するとの方針を1905年(明治38年)に通達し、これにより馬券発売を伴う競馬の開催が可能となった。 [編集] 東京競馬会の成功 馬券発売が黙許されたことを受けて根岸の日本レース・クラブをモデルとした模範的な競馬会の設立が計画され、1906年(明治39年)4月、加納久宜貴族院議員(子爵)を中心とする東京競馬会が日本初の公認競馬(政府公認の社団法人が主催する競馬。なお、一般には後述の補助金競馬・日本競馬会主催の競馬も含め公認競馬と呼ぶ。)の施行体として設立された。同会の理事には加納子爵をはじめ、陸軍馬廠戸山厩舎長安田伊左衛門騎兵中尉、元文部大臣の尾崎行雄東京市長らが就任したほか、競馬開催の実務経験の豊富な日本レース・クラブから数名の外国人役員が招聘された。 当時考えうる超一流のスタッフを集め、とくに馬券の発売や払戻し、配当の計算、発馬、審判などの重要な業務には横浜から熟練の外国人スタッフを招聘して行われた第1回の開催は予想をはるかに上回る売上(4日間で96万円)を記録し大成功におわった。 [編集] 公認競馬施行体の乱立と競馬排斥運動 東京競馬会の成功に続けと、日本各地で公認競馬を開催しようとする動きが起こり、社団法人の設立申請が相次いだ。安田伊左衛門をはじめとする東京競馬会の役員は準備不足による混乱を危惧し、認可は慎重に行うように進言したが、認可を乱発し、これを受けて翌1907年(明治40年)と1908年(明治41年)には札幌、函館、川崎、板橋、目黒、松戸、藤枝、新潟、京都、鳴尾、小倉、宮崎に競馬施行を目的とする社団法人が相次いで誕生した(なお、栃木県小山にも公認が与えられたが、直後に馬券が禁止されて開催実現はしなかった。詳細は後述)。 しかし、そうした団体では競馬運営を熟知した者が不足し、一部では営利主義に走るものも出て、馬券の配当金の計算がおかしいとか、八百長といった騒動が連日頻発し、紳士淑女を集めた競馬はあっという間にやくざ者が出入りする柄の悪い場所へと成り下がった。そのため、競馬排斥論が世論の中心となった。 [編集] 馬券発売の禁止 当時の馬券の発売は、前述のように政府の黙許に拠っており、法的根拠はなく、各競馬倶楽部に政府の馬政官が派遣され監督をしていた。1908年(明治41年)年9月、馬券禁止の強硬派であった岡部長職司法大臣は神戸地裁検事に命じ、馬政局に無断で鳴尾競馬の馬券販売主任者を賭博容疑で検挙した。世論はこれを支持し、新聞は競馬撲滅論を書きたてた。驚いた競馬関係者は桂太郎首相に直々にあたって政府の方針を問いただし、一度は競馬開催と馬券発売の黙許継続の確認を得たが、10月5日になって、突如馬券発行禁止の閣令が発せられた。東京競馬会の認可より僅か2年の出来事であった。 [編集] 競馬倶楽部による公認競馬 [編集] 補助金競馬 馬券の発売が禁止されたことにより公認競馬の各施行体は収入源を断たれ、競馬を開催することがきわめて困難な状況に追い込まれた。しかしながら当時の政府は前述したように軍馬の品種改良に取り組んでおり、生産の奨励、品種改良の成果確認のために競馬の開催を必要としていた。そのため、政府は馬券発売を伴わない競馬開催を推進することとした。 政府は旧来の施行体をすべて解散させ、新たに全国11の競馬倶楽部を競馬施行体とし、補助金を支出した。このような補助金をもとにして行われた競馬を補助金競馬という。なお、補助金競馬の開始に伴い1908年11月、閣令として競馬規程が発せられた。 [編集] (旧)競馬法成立 1923年、馬券発売の合法化を目指していた安田伊左衛門ら陸軍関係者および競馬関係者の活動が実を結ぶ形で(旧)競馬法が成立。馬券の発売が再開された。 [編集] 日本競馬会による公認競馬 日本競馬会時代の東京優駿(1938年) 1936年(昭和11年)に日本競馬会が創設されることとなり、競馬倶楽部は解散となり、競馬場などを財産は日本競馬会が所有することとなった(詳細については日本競馬会を参照)。 太平洋戦争の戦局が悪化する中、1943年には馬券発売を伴う競馬開催の一時停止が決定され、1944年は京都競馬場および東京競馬場において能力検定競走という名目で施行されることとなった。翌1945年には都心部での競走施行そのものが困難となったことから、 能力検定の舞台を北海道と東北地方に移すこととなった。終戦直前の同年8月と終戦後の同年10月には、北海道および東北地方においてごく小規模な能力検定競走が行われた。 なお、終戦後まもなく日本各地で闇競馬が行われるようになった(詳細は闇競馬、および地方競馬において記述)が、興行面で成功したものが多く、公認競馬の再開を後押しする一因となった。なお、闇競馬の中には進駐軍が中心となって開催されたもの(進駐軍競馬)もある(詳細は進駐軍競馬において記述)。
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